シーちゃんと

時々はシーちゃんとこっそり泣こう

良心

やっぱり

ナッツもココアも

買ってきた

 

わたしの食べるぶんで

食料自給率を100%めざしても

たかが知れている

 

こちらでも

お米の消費量

りんごの購買量

年々

減っているというけれど

 

少子化や高齢化

食に対する考えの変化から

どうしようもないことにもおもわれる

 

飼料としての米の栽培を

並行してやっている農家さんも増えているようだ

 

 

何を

どれだけ食べるか

 

これからを

いまを

どう生きるか

 

暗中模索…

 

いまできる

よいとおもわれること

つづけているだけで…

 

 

つねに

胸にあるのは

 

やましさ

 

うしろめたさだ

 

 

良心に恥じる気持ちだ…

 

 

コロナの世界になって

孤独も

孤絶感も

 

増した

 

それは

ママの生命を

その存在を

失うことと

まったく同時にやってきて

 

さらに

あらたな体調の異変と

そこからの激烈な症状も起こり

 

うしろめたさという

弱気は

いつものわたしの

根拠のない勇気のすべて

くじき

 

そのまま

やり過ごしてしまった…

 

 

お医者は苦手すぎるけれど

これまでは

きちんと経過観察をしてもらってた

 

わがままな

絶望かなあ

シーちゃん

 

ママだけは

大病を患わず

 

おだやかに

ゆるやかに

坂を下って

 

眠りながら

天国へ旅立ってほしい

っていう

 

それは

自利

 

 

「ここに神さまがいるの」

 

施設での

ママの言葉

 

徐々に痩せて体力も食欲も落ち

風邪様症状と微熱

くりかえし

 

ひとり

部屋に横になることが増えていた頃

 

子宮のあたりを

麻痺のある左手も

懸命に引き寄せ

両手で

そうっと

包むようにして

 

わたしの目を

じっと見つめて

 

「ここに神さまいるの…」

と言う

 

 

ママは

知っていたのかもしれない

あの時から

 

わたしは

いつも

そのお腹を

さすって

 

痛くないように…

痛くないように…

って

 

おまじないみたいに言って

 

不安で

でも

 

どこかでは

打ち消したい気持ちで

 

 

良心に

恥じる

 

やましさと

生きるしかない

 

 

わたしの

良心のような

ママの存在

 

 

わたしの

うしろめたさは

不可思議な脳内変換をして

 

苦しめるだけだから

 

という

往診の先生の言葉を

 

苦しめただけ

歪めた

 

 

うしろめたさ

やましさ

そこから

 

自分なりの

正しいところへも

ゆけるだろう

 

とにかく

ママがしてくれたように

 

どんな自分も

愛さなくてはいけない

どんな自分も

受け入れなくてはならない

 

どんな自分でも

今日を生きなくてはならない

 

 

一日が

重く

果てしなく

長いのならば

 

一瞬

一瞬を

つないで

 

よいとおもわれることを

つなごう

 

 

知ることが

恐怖となるのは

 

逃げているからなのだけれど…

 

そうでも

身動き取れなくても

生きてゆくことが

いちばんで

 

 

どんな自分も

見捨てない自分でいよう…

 

 

ナッツを

一生懸命噛むと

少し

元気になる☺️

 

固いもの噛むと

べろの付け根から首の筋肉

鍛えられ

 

連動して

体幹が安定し

 

転倒しにくくなる

という

不思議

 

 

体は

一部じゃない

つながってるから

 

こころも

いろんな感情も

つながってる

 

宮澤賢治の本に

やさしい涙をもらうと…😿

 

 

未だ傷のように感じてしまう

やましい

かなしみの涙も

 

やさしく流れてくれるような…

 

 

ママの愛が

流れている自分を

 

愛そう…

 

 

 

あたたかな一日

 

今日が

無事に

しずかに

おだやかに終わりますように

 

明日を

待って

 

ゆっくり

眠れますように

 

 

ありがとう

 

また

明日

 

おやすみなさい